参考文献

小泉策太郎『明智光秀』、裳華書房、明30
奥村恒次郎『明智光秀』、国立国会図書館、明43
高柳光寿、日本歴史学会編『明智光秀』、吉川弘文館(人物叢書日本歴史学会編 1)、1958、299p
高柳光寿、日本歴史学会編『新装版明智光秀』、吉川弘文館(人物叢書日本歴史学会編集)、1986、299p
青木晃[ほか]編『畿内戦国軍記集(和泉選書 ; 39)』、和泉書院, 1989, 238p ? 年代記・軍記の4作品を影印・翻刻により紹介している書。
明智光秀叛逆の原因からその遺骸のはりつけまでを述べた「山崎合戦記」(聖藩文庫本)を収録。
藤田達生、『謎とき本能寺の変』、講談社(講談社現代新書#1685)、2003, 200p
谷口克広『信長軍の司令官』(中公新書)、中央公論新社1782、2005年:ISBN 4-12-101782-X
『歴史群像 No.70』、学研、2006年- 史伝 明智光秀
谷口克広、『検証- 本能寺の変』 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー#232)、 2007, 263p
永井寛、『明智光秀』、三一書房、1999
山崎の戦い

光秀は京都を押さえたが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の態度は期待外れだった。
本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、新政権を整える間もなく、本能寺の変を知って急遽毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた 羽柴秀吉の軍を、現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる山崎で迎え撃つことになった。
決戦時の兵力は、羽柴軍2万4千(2万6千から4万の説もあり)に対し明智軍1万2千(1万6千から1万8千の説もあり)。
兵数は秀吉軍が勝っていたが、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、 明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。