織田家臣時代

信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされる。
義昭と信長が対立し始めると、義昭と袂を別って信長の直臣となった。各地を転戦して、元亀2年(1571年)頃比叡山焼き討ちで武功を上げ 近江国の滋賀郡(約5万石)を与えられ、坂本城を築いて居城とした。
天正3年(1575年)に、惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守の官職を与えられ、惟任日向守と称した。
城主となった光秀は、石山本願寺(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や信長に背いた荒木村重と松永久秀(有岡城の戦い・信貴山城の戦い)を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、 丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、天正7年(1579年)までにこれを平定した。
この功績によって、これまでの近江国滋賀郡に加え丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領し、丹波亀山城・横山城・周山城を築城した。
京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって重要な地位にあったことが伺える。
また丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶等、近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。
これら与力の所領を合わせると240万石ほどになり近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰・畿内管領」と呼ぶ者もいる。
天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。